しおりブログ用(仮)

きまぐれにひとりごと

DDについて

みなさん、こんにちは、こんばんは。2度目の投稿です。

お試し投稿だけで途絶えると思ってた人!はい!私はそう思ってたよ!

 

早速ですが本題に入りたいと思います。

まずはタイトルにも入っている、この「DD」という言葉を意識し始めたきっかけというか、考え始めたきっかけをお話しようと思います。

ツイッターからこの記事を読みに来てくださった方にはわかると思うのですが、私は某動画サイトで歌ってみた動画を投稿している、所謂歌い手と呼ばれる人たちが好きです。ここ数年でライブにも足を運べるようになり、そのたびに自己満ライブレポと称した感想のようなものをツイートしておりました。自分の感動したこと、好きだと思った瞬間、たった2時間程度の夢のようだった時間を忘れたくない一心で人がごった返すライブ後のファミレスで文字を打ち込み続け、気づけば頼んだ食事も冷めてしまっていることがしばしばあります。

 

時間は去年の夏に遡ります。たくさんの人気歌い手さんが出演するライブツアーの、とある公演に参戦したときのことです。

私はこの公演で初めてお目にかかる歌い手さんが多くいました。私が本当に一番好きで応援している歌い手さんは出演されていなかったけれど、そんなことは関係なしに心から楽しめる素晴らしい公演でした。このライブのおかげで「この人の歌をもっと聴きたい」とか「この人の出るライブにまた足を運びたい」とか、そんな気持ちにさせてもらいました。

そんな気持ちを伝えたくて、忘れたくなくて、いつものように感想をツイートしました。有り難いことに、以前から別のライブレポをきっかけに私のツイートを好きだと言ってくださる方がいたおかげで、いいねやリツイートをたくさんしていただけたので、ふと思い立ってリツイートしてくださったある方のホーム画面に飛んでみました。すると、私のツイートをいくつかリツイートしたあとに「DDかよ しね」とツイートされていました。

これが私が「DD」という言葉を意識し始めたきっかけです。無駄に長かったです。ゴメンネ

 

このとき私は「よくわかんないけど私のことが気に入らないのはわかった」と解釈しました。よくわかんないけど、とりあえずむかつきました。今まで生きてきてしねって言われたことないもん。それも、全く知らない人間に。「DD」であることは、見ず知らずの人間にまで敵意を向けられてしまうほどいけないことなのかと、不思議に思いました。

そこで、私はあやふやだった「DD」の意味について調べました。

この言葉は元々アイドルファン特有のもので「誰でも 大好き」の頭文字(Daredemo Daisuki)から取って出来ています。その名の通り誰でも大好き、つまり、アイドルという大きい括りに属する人物なら誰でも、平等に大好きということです。ヲタ的に表現すれば「全推し(箱推し)」ジャニヲタ的には「事務所担」などがそれに当たるのでしょうか。とにかく、そのジャンルにおいて嫌いな人が一人もおらず、全てを平等に愛する人や状態のことを総称して「DD」と呼ぶのだそうです。

 

ここまで調べて私は気付きます。「待って、私DDじゃない」と。

あの方が言うDDとは、歌い手なら誰でも大好きということでしょう。しかし、私は別に歌い手さんなら誰でも好きなわけじゃありません。心から大好きな人もいれば、何かしらの理由があってどうしても好きになれない人もいます。自慢じゃないですが。たしかにライブ後のツイートを見れば、複数の名前を出してかっこよかった、素敵だったと褒め倒してはいますが、それも自分が好きだと感じた方のみです。それなのに、見ず知らずのよくわからん他人に「しね」とまで言われてしまいました。むかつく。

むかついたのは、自分が「歌い手なら誰でも大好き」だと思われてしまったからです。一番に特別大好きな歌い手さんは今もこの先も一人しかいませんが、動画投稿を心待ちにしていたり、ツイートを楽しく読ませていただいている好きな歌い手さんは他にもいます。けれど、私がその人たちを好きな理由に「歌い手である」ことは含まれていません。つまり、DDの定義に当てはまらないのです。

 

でも私は、本来の意味でとらえればDDが悪いことだとは思わないのです。煽りっぽく聞こえたら申し訳ないのですが、嫌いな人が一人もいないなんてすっごーい!君は博愛主義者なフレンズなんだねと思っています。ほんとです。

ただ、聞こえが良いか、自分がDDになりたいかと問われればYESと答えるのには渋ってしまいます。それはやはり、愛を注ぐ量の問題なのではないかと考えます。

自分の持っている愛を100だとします。単推しの場合だと、その一人に100の愛を注げることになります。同時に、脇目も振らず一途に応援しているという良い印象を与えます。逆にDDの場合だと、そのジャンルにいる全ての人に平等に愛を注がなければいけないわけですから、一人あたりに注げる愛の量が少なくなってしまいます。特に歌い手さんは数えきれないほどに存在しているので、それこそ1にも満たない量の愛しか注げないはずです。「歌い手である」というステータスだけで「好きっ♡」となってしまうのは、やはり軽率で悪い印象を与えてしまうでしょう。物は言い様だなという気もしてきてしまいます。

 

もう一度言いますが、私はDDを否定したいわけではありません。実際、私と仲良くしてくださっている方の中には自らDDだと名乗っている方もいるし、みんなが好きなら私も好き!といったような方もいます。みんなすごく良い子です。その一方で、DDという存在を嫌っている方もいます。

この理由は、人によってDDの定義のとらえ方が違うことにあるのではないでしょうか。今まで書いてきたように、良く言えば博愛主義者、悪く言えば軽率で愛の浅い人…といった具合に。

それから、単推しを名乗っておきながら他の人にも好きだと言っているのが許せない!DDじゃねえかお前!という方もいるようです。同担であれば余計に。たしかに、矛盾を感じてしまう気持ちもわかります。浮気者ォ!ってことですよね。違うか。

 

ツイッターを見ていると、単推しであることが特別なステータスになっているような気がしなくもありません。先ほど書いた、自分の持っている愛を全て注いでいるという点でDDより格上のファンであるという意識が芽生えているのでしょうか。そもそもファンに格上も格下もないと思うのですが、愛を注ぐ量に差があるのは事実ですよね。うーん。

 

なんだか色々面倒なこの界隈ですが、言葉の意味を少し考えて使うだけで傷つかずに済む人がいたり、私のように見ず知らずの他人にむかつく人が減ったりすると思うのです。ただの小娘が何言ってんだよすっこんでろと思われたらそれまでなのですが、みなさんが意識するきっかけになってくれれば幸いです。

 

まとまりのない文章を書き散らしてしまいました。きっと明日辺りには死にたくなってるんだと思います。

このブログはみなさんに何かを強制するものではありませんので、お手柔らかに。メンタルが豆腐のようにもろいので、誹謗中傷・晒し上げなどはご遠慮いただければ幸いです。オイシクナイヨ

 

 

それではまた。